トルコ6人女子旅〜想像を超えた魅惑の国の物語
プロローグ:期待と不安の出発
「トルコって発展途上国なんでしょ?」
出発前、私たちの誰かがそう口にした。でも、その認識は帰国する頃には完全に覆されることになる。6人の女子が選んだ旅先トルコ。それは、歴史とモダンが交錯し、東洋と西洋が出会い、私たちの想像をはるかに超える体験をもたらしてくれる国だった。
空港で集合したとき、私たちはスーツケースを引きながら、まだ見ぬトルコの景色に思いを馳せていた。ブルーモスクの青いタイル、パムッカレの白い石灰棚、カッパドキアの不思議な岩の風景——ガイドブックで見た写真が、これから現実になる。
第一章:イスタンブール——文明の十字路
ブルーモスク、祈りの青
イスタンブールに降り立った瞬間から、この街の独特なエネルギーに包まれた。ヨーロッパとアジアを隔てるボスポラス海峡。その西側、歴史地区に立つブルーモスクは、私たちのトルコ旅行の最初の目的地だった。
正式名称はスルタンアフメト・モスク。でも、誰もが「ブルーモスク」と呼ぶ。その理由は、中に入った瞬間に理解できた。
「わあ……」
6人全員が、同時に息を呑んだ。
天井を、壁を、柱を覆い尽くす青いイズニックタイル。2万枚以上ものタイルが織りなす幾何学模様と花のモチーフが、まるで天国のような空間を創り出していた。差し込む光が、青い世界をさらに幻想的に染め上げる。260もの窓から注ぐ自然光が、タイルの表面で反射し、まるで海の中にいるような錯覚さえ覚える。
観光客として訪れた私たちだが、ここは今も現役の礼拝所だ。靴を脱ぎ、女性はスカーフで髪を覆う。その瞬間、私たちは単なる観光客ではなく、この神聖な空間を共有する者となった。
6本のミナレット(尖塔)を持つこのモスクは、17世紀初頭、オスマン帝国の最盛期に建てられた。当時、6本のミナレットを持つのはメッカの聖モスクだけだったため、このモスクの建設は論争を巻き起こしたという。結局、スルタンはメッカに7本目のミナレットを寄進することで解決した。そんな歴史的エピソードを知ると、この壮麗な建築物がさらに深い意味を持って見えてくる。
中央のドームの直径は23.5メートル、高さは43メートル。その巨大な空間の中で、私たちは自分たちの小ささと、同時に、人間が創造できる美の偉大さを感じていた。
トプカプ宮殿——34カラットの輝き
ブルーモスクから歩いてすぐのところにトプカプ宮殿がある。15世紀から19世紀まで、約400年間にわたってオスマン帝国の中心だった場所だ。
宮殿に入ると、まず目に飛び込んでくるのは広大な庭園と、次々と現れる門や建物の数々。ここはただの宮殿ではなく、一つの都市のようだった。最盛期には4000人もの人々が暮らしていたという。
私たちが最も楽しみにしていたのは、宝物館だ。そこには、オスマン帝国が誇る数々の宝物が展示されている。エメラルド、ルビー、サファイアに覆われた短剣。金と宝石で装飾された玉座。そして——
「あれが……」
ガラスケースの中で、ひときわ強い輝きを放つダイヤモンド。トプカプの短剣と並ぶ、この宮殿の至宝「スプーン職人のダイヤモンド」だ。
34カラット。
その数字を聞いても、最初はピンとこなかった。でも、その輝きを目にした瞬間、言葉を失った。周りを囲む49個のダイヤモンドが、中央の巨大なダイヤモンドをさらに際立たせている。なぜ「スプーン職人」という名前なのか——伝説によれば、貧しいスプーン職人がゴミ捨て場でこのダイヤモンドを見つけ、ガラスだと思って3本のスプーンと交換したという。
「3本のスプーンと34カラットのダイヤモンド……」
誰かがつぶやいた。そのあまりの落差に、私たちは思わず笑ってしまった。でも同時に、運命の不思議さと残酷さを感じずにはいられなかった。
宮殿のハレムも見学した。スルタンの母、妻、側室、そして何百人もの女性たちが暮らした空間。豪華な装飾の裏に、複雑な権力闘争や人間ドラマがあったことを想像すると、この美しい建物が別の顔を見せ始める。
ボスポラス海峡を望むテラスに立ったとき、かつてここからスルタンたちが眺めた同じ景色を、私たちも見ているのだと思うと、時間を超えた不思議な連帯感を覚えた。
ボスポラス海峡クルーズ——二つの大陸の間で
午後、私たちはボスポラス海峡のクルーズ船に乗り込んだ。ヨーロッパとアジアを分ける、この伝説的な海峡を船で行く。
出航すると、イスタンブールのスカイラインが目の前に広がった。左手にヨーロッパ側、右手にアジア側。一つの都市が二つの大陸にまたがっているという事実が、船の上からだとよりリアルに感じられる。
オルタキョイ・モスクの優雅なシルエット、ドルマバフチェ宮殿の壮麗な外観、そして近代的な高層ビル群。歴史と現代が混在するイスタンブールの姿が、海峡の水面に映り込む。
「あれがボスポラス大橋だよ!」
友人の一人が指差す先に、海峡を跨ぐ巨大な吊り橋が見えた。1973年に完成したこの橋は、ヨーロッパとアジアを陸路で結ぶ最初の橋だった。その後、第二、第三の橋も建設され、今やイスタンブールの交通の要となっている。
船が進むにつれ、豪華な水辺の邸宅(ヤル)が次々と現れる。19世紀から20世紀初頭に建てられたこれらの邸宅は、オスマン帝国の貴族や裕福な商人たちの夏の別荘だった。色とりどりの木造建築が、水面に美しい影を落としている。
カモメが船の周りを飛び交い、時折、船に近づいてくる。観光客が投げるパンくずを狙っているのだ。私たちも持っていたスナックを少し投げてみると、見事な飛行技術でキャッチする。
海峡の両岸には、モスク、教会、宮殿、要塞、近代的なビルが入り混じって建っている。ルメリ・ヒサル要塞の堅固な城壁が、かつてここが重要な戦略的要所だったことを物語る。
約2時間のクルーズの間、私たちは海風を浴びながら、この海峡が見てきた歴史に思いを馳せた。古代ギリシャの船団、ローマ帝国の軍船、ビザンツ帝国の交易船、オスマン帝国の艦隊——何千年もの間、無数の船がこの海峡を通過してきた。
「ここって、世界史の教科書に何度も出てきた場所だよね」
誰かがしみじみと言った。確かに、ボスポラス海峡の支配権をめぐって、どれだけの戦いが繰り広げられたことか。今、平和な観光船として航行できることの幸せを、私たちは噛みしめていた。
イスタンブールの物価——50万円の現実
クルーズを終え、ホテル近くのレストランで夕食を取ることにした。おしゃれなビストロ風の店で、メニューを開いて驚いた。
「ワイン1杯が……2700円!?」
グラスワイン1杯である。ボトルではない。思わず友人たちと顔を見合わせた。
ガイドさんが言っていたことが、このとき初めて実感として迫ってきた。「イスタンブールは今、月収50万円ないと生きていけないくらい物価が上昇しています」。
私たちは発展途上国だと思い込んでいた。でも、目の前の現実は全く違っていた。レストランの価格、ホテルの料金、タクシー代——どれも東京と変わらない、いや、場合によっては東京以上だ。
トルコリラの急激なインフレーションが原因だった。2021年頃から顕著になった通貨安と物価上昇。特にイスタンブールのような大都市では、生活費が急騰している。現地の人々にとって、この状況はどれほど厳しいものなのだろう。
それでも、街は活気に満ちていた。高級ブティック、モダンなカフェ、最新のレストラン。イスタンブールは、困難な経済状況の中でも、そのエネルギーを失っていなかった。
結局、私たちはワインの代わりに、トルコの伝統的な飲み物アイラン(塩味のヨーグルトドリンク)を注文した。これなら手頃な価格で、しかもトルコらしい体験ができる。
夕食後、ホテルへの帰り道、イスタンブールの夜景を眺めながら歩いた。ライトアップされたモスクのミナレットが、夜空に向かって伸びている。この街の複雑さ——古代と現代、東洋と西洋、豊かさと困難——そのすべてが、この美しい夜景の中に溶け込んでいるように感じられた。
第二章:トロイ——神話が現実になる場所
伝説の木馬
翌朝早く、私たちはイスタンブールを出発し、エーゲ海沿岸の町チャナッカレへ向かった。目的地は、誰もが知るあの伝説の舞台——トロイ遺跡だ。
「トロイの木馬」の話は、誰もが子供の頃に聞いたことがあるだろう。ギリシャ軍が巨大な木馬を作り、その中に兵士を隠して敵陣に侵入したという話。ホメロスの叙事詩「イリアス」に描かれた、紀元前12世紀頃のトロイ戦争。
長い間、トロイは神話の中だけの架空の都市だと考えられていた。しかし、19世紀後半、ドイツの考古学者ハインリヒ・シュリーマンが、この地で発掘を開始した。彼はホメロスの叙事詩を信じ、その記述を手がかりに遺跡を発見したのだ。
遺跡の入口には、観光用の巨大な木馬が再現されている。高さ約10メートルのその木馬は、子供たちや観光客が中に入って遊べるようになっている。
「写真撮ろう!」
私たちは木馬の前でポーズを取った。6人全員が収まるようにセルフィースティックを伸ばし、何枚も写真を撮った。晴れ渡った青空と、伝説の木馬。この瞬間を記録に残さずにはいられない。
9層の都市
遺跡の中に入ると、ガイドさんが説明を始めた。
「トロイの遺跡は、実は9つの層が重なっています。最も古い層は紀元前3000年頃、最も新しい層はローマ時代のものです」
つまり、ここには約5000年の歴史が、地層のように積み重なっているのだ。ある文明が滅び、その上に新しい文明が築かれ、また滅び……その繰り返し。
シュリーマンが求めたホメロスのトロイは、第7層にあたると考えられている。紀元前12世紀頃、まさにトロイ戦争の時代だ。実際、この層からは戦火の痕跡や、急いで修復された城壁の跡が見つかっている。
遺跡を歩きながら、私たちは古代の石畳を踏みしめた。この道を、かつてトロイの人々が歩いていた。市場で買い物をし、神殿で祈りを捧げ、家族と共に食事をした。そして、ある日、ギリシャ軍がやってきて、10年に及ぶ戦争が始まった。
城壁の跡に立つと、遠くにエーゲ海が見える。ギリシャ軍の船団は、あの海からやってきたのだろう。美しいヘレネをめぐる戦い、アキレウスとヘクトルの決闘、そして運命の木馬——神話と現実の境界が、この場所では曖昧になる。
歴史の重層性
遺跡の中には、様々な時代の建造物が混在している。古代の神殿の柱、ローマ時代の劇場、ビザンツ時代の教会。それぞれの時代の人々が、この場所を聖地として、あるいは重要な都市として大切にしてきた。
「なぜこの場所が何度も選ばれたのでしょう?」
ガイドさんが問いかける。
答えは地理的な重要性だ。トロイは、エーゲ海からマルマラ海、そしてボスポラス海峡を経て黒海へ至る海路の要所に位置していた。交易の中心地として、また戦略的要地として、この場所は常に価値があったのだ。
考古学博物館には、発掘された数々の遺物が展示されている。土器、装飾品、武器、日用品。それらを見ていると、神話の向こう側に、実際に生きていた人々の姿が見えてくる。
トロイの木馬は、おそらく実際には存在しなかっただろう。多くの歴史家は、これを何らかの出来事の比喩だと考えている。しかし、トロイという都市は確かに存在し、そこで大きな戦いがあったことも事実だ。神話と歴史の間に、真実がある。
遺跡を後にするとき、私たちはもう一度、あの巨大な木馬を振り返った。神話の世界から現実の世界へ、そしてまた神話の世界へ——トロイは、その境界線上に永遠に存在し続けるのだろう。
第三章:エフェソス——古代の栄華
古代都市の完成度
チャナッカレから南下し、私たちは次の目的地エフェソスへ向かった。地中海性気候の温暖な空気の中、オリーブ畑と松林の間を抜けていく。
エフェソス。この名前を聞いて、すぐにピンとくる人は少ないかもしれない。でも、ここはかつて地中海世界で最も重要な都市の一つだった。紀元前10世紀頃に建設され、ローマ時代には人口25万人を誇る大都市として繁栄した。
遺跡に足を踏み入れた瞬間、その保存状態の良さに驚かされた。トロイが地層のように重なった遺跡だったのに対し、エフェソスは一つの時代の都市が、ほぼそのまま残されているような印象を受ける。
大理石の道
まず目に入るのが、美しく修復された大理石の道だ。幅約5メートル、両側に列柱が並ぶこの道は、古代のメインストリートだった。
大理石の表面には、車輪の跡が残っている。2000年以上前、ここを無数の馬車や荷車が行き交った証だ。足元の石に刻まれた模様を見ると、なんと当時の「広告」だった。足の形と女性の顔、そして矢印——これは娼館への道案内だったという。
「古代の人も、今の私たちと変わらないんだね」
友人の一人が笑いながら言った。確かに、広告を使ったマーケティングも、娯楽を求める欲求も、人間の本質は2000年経っても変わらないのかもしれない。
ケルスス図書館——知の殿堂
エフェソスのハイライトは、間違いなくケルスス図書館だ。
道を進んでいくと、突然視界が開け、壮麗なファサードが目の前に現れる。2階建ての建物の正面には、8本のコリント式円柱が並び、その間に4体の女性像が配置されている。知恵、運命、学識、美徳を象徴する女神たちだ。
「わあ、すごい……」
写真では何度も見ていたが、実物の迫力は格別だった。高さ約17メートルのファサード。大理石の白さが、青空に映える。
この図書館は、紀元2世紀初頭、ローマ帝国の元老院議員ケルススを記念して、彼の息子によって建てられた。ケルススの墓は、図書館の地下にある。つまり、これは図書館であると同時に壮大な墓所でもあった。
内部に入ると、かつて1万2000巻もの巻物が収蔵されていた空間が広がる。当時、アレクサンドリア、ペルガモンに次ぐ、世界第3位の規模を誇る図書館だった。壁には巻物を収納する棚の跡が残っている。二重壁構造になっており、その間の空間が湿気や温度変化から貴重な巻物を守った。古代の人々の知恵に、改めて感嘆する。
図書館の前で、私たちは何枚も写真を撮った。6人全員が収まるように、何度も位置を変え、ポーズを変え。この美しい建築物との共演を、できるだけ多くの形で残したかった。
大劇場——音響の奇跡
ケルスス図書館から坂を上ると、巨大な半円形の構造物が見えてくる。エフェソスの大劇場だ。
「これが古代の音響技術です」
完璧な半円形の構造と、石の反射特性を計算し尽くした設計。2000年前の建築家たちは、今の私たちが使うマイクやスピーカーなしで、2万人以上の観客に音を届ける方法を知っていた。
この劇場では、演劇だけでなく、剣闘士の試合や政治集会も行われた。使徒パウロがここで説教を行い、エフェソスの人々と論争したという記録も残っている。聖書の「使徒行伝」に記されたその出来事が、まさにこの場所で起きたのだ。
生活の痕跡
エフェソスの魅力は、壮大な建築物だけではない。古代の人々の日常生活が、そこかしこに感じられることだ。
公衆浴場の跡には、複雑な暖房システムの痕跡が残っている。床下に空洞を作り、そこに温風を通すハイポコースト方式。現代の床暖房の原型だ。
公衆トイレも残っている。大理石のベンチに穴が開いた構造で、下には水路が通っていた。興味深いのは、個室がないこと。古代ローマでは、トイレは社交の場でもあったのだ。人々はここで座りながら、政治や商売の話をした。
道沿いには、商店の跡も残っている。床のモザイクから、ここがどんな店だったのかが分かる。魚屋、肉屋、パン屋——現代の商店街と変わらない。
「2000年前も、今も、人間がやることって同じなんだね」
友人の言葉に、みんなが頷いた。食べて、働いて、娯楽を楽しんで、友人と語らう。時代が変わっても、場所が変わっても、人間の本質は変わらない。その当たり前の真実を、エフェソスの遺跡が教えてくれた。
アルテミス神殿への憧憬
エフェソス観光の最後に、私たちはアルテミス神殿の跡を訪れた。古代世界の七不思議の一つに数えられた、壮大な神殿だ。
でも、そこにあったのは……1本の柱だけだった。
かつて127本もの大理石の円柱が立ち並び、ギリシャ世界で最大の神殿と言われた建物。その栄光の痕跡は、今やこの1本の柱しか残っていない。
「これだけ?」
誰かが残念そうに言った。でも、ガイドさんは笑顔で答えた。
「この1本があるだけで、私たちは想像できるでしょう。127本全てが立っていた時の壮大さを」
確かに、そうだ。1本の柱から、127本の柱が並ぶ神殿を想像する。それは、目に見えるものすべてが残っているよりも、もしかしたら豊かな体験なのかもしれない。
コウノトリが、その1本の柱の上に巣を作っていた。かつて女神アルテミスを讃えた神殿に、今は鳥が住んでいる。栄華と衰退、創造と破壊、そして新たな生命——その循環が、この1本の柱に凝縮されているように感じられた。
第四章:パムッカレ——天空の綿の城
白の世界
エフェソスから内陸へ向かい、私たちはパムッカレに到着した。「パムッカレ」とは、トルコ語で「綿の城」を意味する。その名の由来を、これから目にすることになる。
遠くから見えたその光景に、私たちは思わず声を上げた。
「真っ白!」
山の斜面が、まるで雪に覆われたように純白に輝いている。でもこれは雪ではない。石灰岩だ。
何千年もの間、温泉水が山の斜面を流れ落ち、その過程で炭酸カルシウムが沈殿して固まった。その結果生まれたのが、この世界に類を見ない白い棚田のような地形——石灰棚(トラバーチン)だ。
裸足の巡礼
石灰棚を歩くには、靴を脱がなければならない。保護のためのルールだ。6人全員、靴を脱いで裸足になった。
「冷たい!」
足を水につけた瞬間、その温かさに驚いた。温泉なのだ。約35度の温水が、棚から棚へと流れ落ちている。
石灰の表面は思ったよりも固い。でも所々、柔らかい部分もあって、足の裏に独特の感触が伝わってくる。白い棚の上を、温かい水が薄く流れている。太陽の光を反射して、水面がキラキラと輝く。
高い場所から見下ろすと、無数の白い棚が階段状に連なっている様子が一望できる。まるで天国への階段のようだ。その美しさは、写真で見るのと実際に目にするのとでは、まったく違う。
実は、パムッカレの石灰棚は危機に瀕したこともあった。1980年代、観光地として人気が出ると、無秩序な開発が進んだ。ホテルが建ち、温泉水が大量に汲み上げられ、観光客が靴を履いたまま歩き回った。その結果、石灰棚の一部が灰色に変色し、形成が止まってしまった。
1988年、パムッカレはユネスコ世界遺産に登録された。同時に、厳しい保護政策が実施された。ホテルは撤去され、温泉の利用が制限され、観光客は裸足でしか歩けなくなった。その努力の結果、石灰棚は少しずつ白さを取り戻しつつある。
私たちが今、この美しい景観を楽しめるのは、保護に尽力した人々のおかげだ。自然の美しさを守ることの大切さを、改めて実感した。
温泉プールの至福
石灰棚の上部には、天然の温泉プールがある。私たちは水着に着替えて、そのプールに入った。
「気持ちいい〜!」
温かい水に体を沈めると、旅の疲れが溶けていくようだった。プールの底には、古代の遺跡の柱や石材が沈んでいる。かつてここにあったローマ時代の建物が、地震で崩れ落ちたものだ。つまり、私たちは古代遺跡の中で温泉に浸かっているのだ。
「2000年前のローマ人も、ここで温泉に入っていたんだよね」
歴史との直接的なつながりを感じる瞬間だった。温泉に入るという行為を通じて、時代を超えた人間性の共通点を体感する。
プールに浸かりながら、周りの景色を眺める。白い石灰棚、遠くに広がる平野、青い空。そして、一緒に旅をする5人の友人たち。この瞬間の幸せを、心に刻み込んだ。
ヒエラポリス遺跡——死者の門
パムッカレの石灰棚の上には、古代都市ヒエラポリスの遺跡が広がっている。紀元前2世紀に建設されたこの都市は、温泉療養地として栄えた。
遺跡の中で最も興味深いのは、「プルトニウム(冥府の門)」と呼ばれる場所だ。ここは古代、聖域とされ、神官以外は近づくことができなかった。その理由は、地面から有毒なガスが噴出していたからだ。
実際、20世紀になって調査したところ、この場所からは高濃度の二酸化炭素が放出されていることが分かった。低い位置に溜まったガスは、小動物なら数分で死に至らせるほどの濃度だった。古代の人々は、この自然現象を神の力と解釈したのだろう。
大きな墓地遺跡も残っている。1200基以上の墓が、丘の斜面に並んでいる。古代ローマ時代、人々は温泉で病を癒そうとここにやってきた。治った者もいれば、残念ながら亡くなった者もいた。そして彼らは、この美しい場所に葬られた。
劇場、大浴場、教会、列柱道路——ヒエラポリスは、パムッカレの自然の奇跡の上に築かれた、人間の文明の証だ。自然と人間、生と死、癒しと記憶——そのすべてが、この場所には共存している。
夕方、石灰棚が夕日に染まる時間に、私たちはもう一度その光景を眺めた。白い棚がオレンジ色に染まり、まるで天国への階段が輝いているように見えた。
第五章:コンヤ——旋回する神秘
メヴラーナの街
パムッカレから東へ、私たちはコンヤへ向かった。トルコ中央部の高原地帯に位置するこの都市は、イスラム神秘主義スーフィズムの中心地として知られている。
コンヤは、13世紀の詩人でありスーフィズムの導師、ジャラール・ウッディーン・ルーミー(通称メヴラーナ)が活動した場所だ。彼が創始したメヴレヴィー教団は、「旋回舞踏(セマー)」で有名だ。白い衣装を纏った修行者たちが、音楽に合わせて回転し続ける——その神秘的な舞踏を、私たちは後で目にすることになる。
メヴラーナ博物館——緑のドーム
市の中心部にある、緑のドームが印象的な建物がメヴラーナ博物館だ。もともとはメヴラーナの霊廟だったが、現在は博物館として公開されている。
入口で靴を脱ぎ、女性はスカーフで髪を覆う。内部に入ると、豪華な装飾が目に飛び込んでくる。青と金のタイル、精緻な彫刻、美しいカリグラフィー。イスラム芸術の粋を集めた空間だ。
メヴラーナの棺は、中央の霊廟の中にある。その周りには、彼の弟子たちや家族の棺も並んでいる。巨大なターバンを模した棺の上部が、特徴的だ。
博物館には、メヴラーナが使った楽器、衣服、彼が書いた詩集などが展示されている。中でも印象的なのは、彼の詩の一節だ。
「Come, come, whoever you are. Wanderer, worshiper, lover of leaving. It doesn’t matter. Ours is not a caravan of despair. Come, even if you have broken your vows a thousand times. Come, yet again, come, come.」
「来なさい、来なさい、あなたが誰であろうと。 旅人であろうと、崇拝者であろうと、別れを好む者であろうと。 それは問題ではない。 私たちは絶望のキャラバンではない。 たとえあなたが誓いを千回破ったとしても来なさい。 それでもなお、また来なさい、来なさい。」
この寛容性と受容性のメッセージは、800年近く経った今も、多くの人々の心を打つ。
旋回舞踏——祈りの回転
私たちは旋回舞踏のセマー儀式の様子を動画で鑑賞した。
暗い会場に、静かな音楽が流れ始める。ネイ(葦笛)の哀愁を帯びた音色、太鼓の深い響き。白い長衣を着た修行者たちが、ゆっくりと入場してくる。
彼らは師の前で一礼すると、セマーを始めた。右手を天に、左手を地に向け、軸を中心に回転し始める。ゆっくりと、しかし途切れることなく。
最初は一人、次に二人、三人と、修行者たちが回転に加わっていく。白い衣の裾が広がり、まるで花が開くように。彼らは目を閉じ、恍惚とした表情で回り続ける。
メヴレヴィー教団にとって、この旋回は単なる舞踏ではない。神への愛と献身を表現する祈りの形だ。右手で天から祝福を受け取り、左手でそれを地上に分け与える。自分自身を中心に回転することで、自我を捨て、神との一体化を目指す。
30分以上、彼らは回り続けた。めまいがしないのだろうか、と思うが、長年の訓練によって、彼らは何時間でも回転できるようになるという。
コンヤの夜
ホテルへの帰り道、コンヤの静かな夜の街を歩いた。イスタンブールやエフェソスとは違う、落ち着いた雰囲気がこの街にはある。
伝統的な家屋と現代的なビルが混在する街並み。モスクから響くアザーン(礼拝の呼びかけ)。道端のチャイハネ(喫茶店)では、男性たちが集まってチャイを飲み、談笑している。
「トルコって、本当に多様な国だね」
友人の一人が言った。確かに、私たちが訪れたそれぞれの場所は、まったく違う顔を見せてくれた。イスタンブールの国際的な活気、エフェソスの古代の栄華、パムッカレの自然の神秘、そしてコンヤの精神的な深さ。
一つの国の中に、これほど多様な文化と歴史が共存している。それがトルコの魅力であり、複雑さでもある。
第六章:カッパドキア——妖精の煙突の国
月世界への到着
コンヤから北東へ、バスは標高1000メートルの高原を走る。そして、視界が開けた瞬間——
「うわあ!」
6人全員が、同時に声を上げた。
目の前に広がっているのは、この世のものとは思えない風景だった。奇妙な形の岩が、無数に立ち並んでいる。きのこのような形、円錐形、尖塔のような形。それらが連なり、まるで別の惑星に来たかのような景観を作り出している。
カッパドキア。その名は「美しい馬の土地」を意味するペルシャ語に由来するという。でも、ここで印象的なのは馬ではなく、この独特な岩の造形だ。
何百万年も前、エルジイェス山とハサン山という二つの火山が大噴火を起こした。火山灰と溶岩が堆積し、厚い層を形成した。その後、風雨による侵食で、柔らかい部分が削られ、硬い部分が残った。その結果生まれたのが、この「妖精の煙突(Fairy Chimneys)」と呼ばれる奇岩群だ。
洞窟ホテル——岩の中の一夜
私たちが宿泊するのは、洞窟ホテルだ。カッパドキアならではの体験だ。
ホテルに到着すると、外観からして独特だった。岩を削って作られた建物が、斜面に沿って立ち並んでいる。まるで中世の村にタイムスリップしたような雰囲気だ。
部屋に案内されると、想像以上の快適さに驚いた。確かに壁と天井は岩だが、内装は現代的でおしゃれだ。アーチ型の天井、温かみのある照明、快適なベッド。岩の持つ断熱性のおかげで、外が暑くても室内は涼しい。
「洞窟に住むって、こういう感じなんだ」
窓から外を見ると、他の洞窟ホテルや住居が見える。カッパドキアでは、何千年も前から人々が岩を削って住居を作ってきた。初期キリスト教徒たちは、ローマ帝国の迫害を逃れてここに隠れ住み、岩の中に教会を作った。今、私たちが泊まっているこのホテルも、その長い伝統の延長線上にある。
夜、ホテルのテラスで夕食を取った。カッパドキア料理は、中央アナトリアの伝統的な味付けだ。テスティ・ケバブ(壺焼きケバブ)は、肉と野菜を土の壺に入れて密閉し、オーブンで焼いた料理。給仕の人が、目の前で壺を割ってくれる。パフォーマンスとしても楽しいが、味も絶品だった。
食後、テラスから夜空を見上げた。街の明かりが少ないカッパドキアでは、星が驚くほどよく見える。天の川がはっきりと見え、無数の星が輝いている。その下に、奇岩のシルエットが浮かび上がる。
気球、そして、、
「明日は気球に乗るんだよね」
興奮と少しの不安を込めて、誰かが言った。カッパドキアでの最大のイベント、熱気球ツアーが翌朝待っている。
カッパドキアへの移動中、何十個もの気球が準備されていたのを目撃した。通常は、気球は、早朝に飛ぶのに?まだ飛んでいない。ガイドさんいわく、風が少しでもあると、気球を飛ばすことができず、30分置きに、搭乗判断されるという。
巨大な気球に、バーナーで熱風を送り込んでいる。
「きれい……」
様々な色の気球が、次々と膨らんでいく様子は、それだけで幻想的な光景だった。
明日は雨+風予報
雨なので、気球が飛ばないことになりました。とガイドから報告を受け、みんなショックをうける。
気球に乗りたかった。乗りたかったね〜〜乗りたかったね〜〜。
もし気球飛行してたら、着陸後、伝統的なセレモニーがあるらしい。シャンパンで乾杯し、フライト証明書をもらう。気球飛行の伝統は、18世紀にフランスで始まったが、当時から着陸後にシャンパンで祝う習慣があったという。「気球には乗れなかったけど、これはこれでよかったね」
友人の一人が言った。「安全第一。そう命あって、何かができるんだからね」
みんなが頷いた。
確かに、地上から見るこの光景も、忘れられない思い出になった。そして、「また来よう、次は絶対気球に乗ろう」という新たな目標もできた。
地下都市——地中の迷宮
午後、私たちはカイマクル地下都市を訪れた。カッパドキアには、大小200以上の地下都市があるが、カイマクルはその中でも最大級のものだ。
入口から階段を降りていく。すぐに気温が下がり、ひんやりとした空気に包まれる。狭い通路、低い天井。かがんで進まなければならない場所もある。
「閉所恐怖症の人は無理だね……」
誰かがつぶやいた。確かに、地下深くの狭い空間は、少し圧迫感がある。
でも、その驚くべき構造に、不安は興味に変わっていった。この地下都市は、地下8階層、深さ約85メートルまで掘られている。居住空間、台所、食糧貯蔵庫、ワインセラー、教会、墓地——地上の都市にあるすべてのものが、ここにもある。
最盛期には、2万人もの人々がここで生活できたという。主に、外敵の侵略や迫害から逃れるために使われた。巨大な石の扉で通路を塞ぐことができ、換気システムも完備されていた。水も地下水脈から汲み上げることができた。
驚くべきは、この地下都市がいつ、誰によって作られたのか、正確には分かっていないということだ。紀元前とも、もっと古いとも言われている。何世代にもわたって、人々が少しずつ掘り進めたのだろう。
地下都市を出て、地上に戻ったとき、太陽の光がいつもより明るく感じられた。地下の暗闇を経験したからこそ、光のありがたさを実感する。
ギョレメ野外博物館——岩の教会
カッパドキア最後の観光地は、ギョレメ野外博物館だ。ここには、初期キリスト教徒たちが岩を削って作った教会が、30以上も集まっている。
外から見ると、ただの岩にしか見えない。でも、小さな入口から中に入ると——
「うわあ、フレスコ画!」
天井と壁一面に、色鮮やかなフレスコ画が描かれている。キリストの生涯、聖人たちの姿、聖書の場面。1000年以上前に描かれたとは思えないほど、色が鮮明に残っている。
岩の内部という密閉空間が、外気や湿気から絵を守ったのだ。また、イスラム教徒による支配の時代、これらの教会は忘れ去られ、放置された。そのおかげで、逆に破壊を免れた。
「暗黒の教会(カランルク・キリセ)」は、最も保存状態の良いフレスコ画を持つ。その名の通り、窓が極めて小さく、内部は暗い。だからこそ、顔料の退色が少なく、1000年前の鮮やかな色彩が今も残っている。
これらの教会を作った人々は、命の危険を冒しながら、ここで祈りを捧げた。岩の中という隠れた場所で、彼らは信仰を守り続けた。その献身と信念が、この美しいフレスコ画となって残されている。
カッパドキアを離れる時、私たちはバスの窓から、もう一度あの奇岩群を眺めた。自然が創り出した造形美と、人間が作り上げた文化が融合した、唯一無二の場所。
「また来たいね」
みんなが同意した。カッパドキアは、一度訪れたらまた戻ってきたくなる、そんな魔力を持つ場所だった。
第七章:新しいトルコ——発展と変革
先進国という現実
旅の終わりに近づき、私たちはトルコという国について、改めて考えていた。
出発前、正直に言えば、私たちの多くは「トルコは発展途上国」という漠然としたイメージを持っていた。でも、実際に訪れてみると、その認識は完全に間違っていたことが分かった。
イスタンブールの街を歩けば、最新のファッションブランド、モダンなカフェ、洗練されたレストランが並んでいる。道路インフラは整備され、メトロシステムは効率的だ。人々はスマートフォンを使いこなし、キャッシュレス決済も普及している。
トルコの産業力
ガイドさんから聞いた話は、私たちの認識をさらに変えた。
「トルコはドイツにドローンを輸出しています。無人戦闘機も独自開発しています。EV車は、トルコ国内だけでなくEU諸国でも販売されています」
トルコの自動車産業は、実は長い歴史を持つ。かつて、トヨタをはじめとする多くの外国メーカーが、トルコに組立工場を建設した。その結果、トルコには自動車製造のノウハウと技術が蓄積された。それを基盤に、トルコは独自の自動車ブランド「TOGG(トッグ)」を立ち上げた。2022年に生産を開始したこのEV車は、トルコの技術力を世界に示している。
航空宇宙産業も急速に発展している。トルコのドローン「Bayraktar TB2」は、世界中で高い評価を受けている。ウクライナでも使用され、その性能が実証された。トルコは今や、先進的な軍事技術を持つ国の一つだ。
繊維産業も重要だ。多くの有名ファッションブランドが、トルコで生産を行っている。品質の高さとコストパフォーマンスの良さが評価されているのだ。
物価上昇の現実
しかし、トルコが直面している課題も見えてきた。
「イスタンブールでは、月収50万円ないと生活できません」
ガイドさんの言葉が、私たちの頭から離れなかった。ホテル近くのバーで飲んだワイン1杯が2700円だったことも、その現実を示していた。
トルコリラの価値は、2021年以降急落した。2018年に1ドル=4リラ程度だったのが、2024年には1ドル=30リラを超えた。通貨価値が数年で7分の1以下になったのだ。
その結果、輸入品の価格が高騰し、国内物価も連鎖的に上昇した。特にイスタンブールのような大都市では、家賃、食費、交通費、すべてが値上がりしている。
でも、街を歩く人々は元気だった。カフェは客で賑わい、レストランには行列ができ、ショッピングモールには多くの人が訪れていた。経済的困難の中でも、トルコの人々は生活を楽しみ、前を向いて生きているように見えた。
若い国の活力
トルコの人口は約8500万人で、その平均年齢は約32歳だ。日本の平均年齢が48歳以上であることを考えると、トルコがいかに若い国かが分かる。
街を歩いていても、子供や若者の姿が目立つ。公園で遊ぶ子供たち、カフェでおしゃべりする学生たち、仕事に向かう若いビジネスパーソンたち。この若さと活力が、トルコの将来の可能性を感じさせる。
教育にも力を入れている。多くの大学があり、特に工学系や医学系の教育は高いレベルにある。トルコの若者たちは、高い教育を受け、国際的な視野を持っている。英語を流暢に話す若者も多い。
東西の架け橋
トルコの最大の特徴は、やはり東洋と西洋の交差点であることだろう。
地理的には、ヨーロッパとアジアにまたがる。文化的には、イスラム教の伝統とヨーロッパの近代性が共存する。歴史的には、ビザンツ帝国とオスマン帝国の遺産を受け継ぐ。
この多様性が、トルコの強みでもあり、課題でもある。西欧化を進めつつ伝統を守る。民主主義を発展させつつ安定を保つ。経済成長を追求しつつ格差を是正する。これらのバランスを取ることは容易ではない。
でも、だからこそトルコは魅力的だ。単一の文化や価値観では説明できない、複雑で多層的な社会。それが、私たちを惹きつける。
エピローグ:旅の終わりと新たな始まり
最後の夜
トルコ最後の夜、私たちはイスタンブールのホテルで、旅を振り返っていた。
「信じられない。こんなに濃い1週間だったなんて」
誰かが言った。確かに、毎日が新しい発見と驚きの連続だった。
ブルーモスクの青い世界、トプカプ宮殿の34カラットのダイヤモンド、ボスポラス海峡の風、トロイの木馬、エフェソスの大理石の道、パムッカレの白い棚、コンヤの旋回舞踏、カッパドキアの気球飛行、地下都市の迷宮——一つひとつが鮮明に思い出される。
でも、最も印象に残っているのは、意外にも「発見」だった。トルコは発展途上国ではなく、先進国だという発見。ドローンを輸出し、EV車を開発し、世界に影響を与える国だという発見。そして、物価上昇という困難に直面しながらも、活力を失わない人々の姿。
「私たちって、けっこう先入観で物事を見てたんだね」
友人の一人が、反省を込めて言った。みんなが頷いた。
メディアで見る情報や、教科書で学んだ知識だけでは、その国の本当の姿は分からない。実際に訪れ、自分の目で見て、肌で感じることの大切さを、私たちは学んだ。
6人女子旅の意味
この旅は、ただの観光旅行ではなかった。6人の友人が、一緒に笑い、驚き、時には疲れて文句を言いながら、共通の体験を積み重ねた旅だった。
体調が悪くなった人、地下都市の狭い通路で頭をぶつけた人、パムッカレの石灰棚で滑って転びそうになった人、バッテリーとアダプターを忘れた人——そういう小さなハプニングも含めて、すべてが大切な思い出になった。
6人で行ったからこそ、楽しさは6倍になった。誰かが見つけた面白いものを、みんなで共有する。誰かが疲れたら、励まし合う。写真を撮るときは、順番に撮影係を務める。
「また、みんなで旅行に行きたいね」
誰かが言うと、すぐに「次はどこ?」という話になった。まだトルコから帰ってもいないのに、もう次の旅行のことを考えている。それだけ、この旅が楽しかったということだ。
変わった視点
トルコから帰ったら、世界の見方が少し変わるだろう、と私は思った。まず、子供にエルトゥールル号遭難事件を描いた映画
『海難1890』をみせよう。
ニュースでトルコの話題が出たら、以前とは違う見方ができる。トルコ料理のレストランを見つけたら、絶対に入ってみたくなる。ボスポラス海峡の名前を聞いたら、あの船からの景色が思い出される。
そして何より、「発展途上国」とか「先進国」とか、そういうラベルで国を判断することの危険性を学んだ。どの国も、単純なカテゴリーには収まらない複雑さと多様性を持っている。
感謝と希望
この美しい国を訪れることができて、本当に良かった。歴史と現代、東洋と西洋、自然と人工、伝統と革新——すべてが混ざり合ったトルコという国。その複雑さと魅力を、少しだけ理解できた気がする。
そして、この旅を一緒に経験できた5人の友人に感謝している。一人では見過ごしてしまったかもしれない景色も、6人だったから気づくことができた。一人では不安だったかもしれない体験も、6人だったから楽しめた。
トルコは、私たちに多くのことを教えてくれた。歴史の重層性、文化の多様性、人間の創造力、自然の驚異、そして何より、実際に体験することの大切さ。
翌日、私たちは日本へ向けて出発する。でも、トルコで得た経験と思い出は、これからもずっと私たちの中に残り続けるだろう。
そしていつか、また戻ってきたい。まだ見ていない場所がたくさんある。黒海沿岸、東部アナトリア、地中海リゾート——トルコは広く、一度の旅行ではとても見きれない。
「じゃあ、次はトルコの続きってことで」
友人の提案に、みんなが笑顔で頷いた。
トルコ6人女子旅。それは、想像を超えた素晴らしい体験であり、私たちの人生の貴重な1ページとなった。
後記
この旅行記を書き終えて、改めて思う。旅とは、移動することではなく、変化することなのだと。
私たちは、物理的にはトルコを訪れ、様々な場所を巡った。でも、本当の旅は、私たちの内面で起きた。知らなかったことを知り、信じていたことが覆され、新しい視点を得た。
トルコは発展途上国ではなく、むしろ多くの分野で先進的な技術を持つ国だった。物価上昇という困難に直面しながらも、人々は活力を失っていなかった。古代遺跡と最新技術が共存し、イスラムの伝統と西洋の近代性が融合していた。
一つの国に、これほど多くの側面があることを、私たちは身をもって学んだ。そして、それは他のどの国にも言えることだろう。簡単なラベルや先入観で判断せず、実際に訪れ、自分の目で見ることの大切さ。
6人で行った意味も大きかった。同じ体験を共有しながらも、それぞれが違う角度から物事を見る。誰かが気づかなかったことを、別の誰かが発見する。その多様性が、旅をより豊かにした。
最後に、この旅行記を読んでくださった方へ。もしトルコに少しでも興味を持たれたなら、ぜひ実際に訪れてみてください。写真や文章では伝えきれない、現地でしか感じられない何かが、必ずそこにあります。
そして、友人たちと一緒に旅をすることの素晴らしさも、改めてお伝えしたいと思います。共有された経験は、個人の記憶を超えて、グループ全体の宝物になります。
トルコよ、テシェキュル・エデリム(ありがとう)。 そして、いつかまた、ギョルシュルズ(また会いましょう)。
旅のデータ:
- 期間:9日間
- 参加者:6人(女性)
- 訪問都市:イスタンブール、チャナッカレ(トロイ)、セルチュク(エフェソス)、パムッカレ、コンヤ、カッパドキア
- 主な体験:ブルーモスク、トプカプ宮殿、ボスポラス海峡クルーズ、トロイ遺跡、エフェソス遺跡、パムッカレ石灰棚、メヴラーナ博物館、旋回舞踏鑑賞、カッパドキア気球ツアー、洞窟ホテル宿泊、地下都市探検
- 総費用:一人当たり約55万円(航空券、ホテル、ツアー、食事込み)
- ベストシーズン:春(4-5月)と秋(9-10月)
- 気候:訪問時は5月、晴天が多く気温は20-28度と快適
この旅が、次の誰かの旅のきっかけになりますように。
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